近年ドイツの高級車ブランド「アウディ」が世界的に人気ですよね。
2014年の世界販売台数は過去最高を記録し、今やBMWやメルセデス・ベンツを追い抜く勢いです。
これまで日本では、BMWやメルセデス・ベンツの陰に隠れて、あまり存在感の無かったアウディですが、昔から一貫して堅実な車造りを行なってきたメーカーです。
今日は、そんなアウディの歴史を紐解いていきたいと思います。
アウディの創業者はベンツのエンジニアだった!?
アウディの創設者は、アウグスト・ホルヒという人物です。
アウグスト・ホルヒは、1868年にドイツ西部のヴィンニンゲンという町でワイン酒屋と鍛冶屋を営む一家の息子として生まれました。
学生時代は、ドイツ最高峰の技術学校で工学を学び、卒業後エンジンを製造する会社で生産技術者として働きます。
その後、28歳で、現在のメルセデス・ベンツの前身であるベンツ社に転職します。
それは、ガソリンエンジン自動車が発明されてから、まだ10年しか経っていない1896年のことでした。
自ら立ち上げた会社を追われる
ホルヒは、ベンツ社で3年間自動車のイロハを学び、その後いよいよ独立します。
1899年、アウグスト・ホルヒはベンツ社から独立し、自動車製造会社を立ち上げました。
しかし、この時立ち上げたのは、アウディではなく、自身の名前をつけた「ホルヒ」という会社でした。
アウグスト・ホルヒはとにかく「品質」や「性能」への探求心が強く、彼が新会社で開発した車は、当時ではまだ珍しかったアルミ製のエンジンやニッケルクローム鋼の歯車などを積極的に採用していました。
しかし、そんな彼の技術開発への貪欲さゆえに、売上に見合わない資金を技術開発費に投入し、のちの会社経営に悪影響を及ぼしました。
その結果、アウグスト・ホルヒは、自ら創業した会社「ホルヒ」を追われることになります。
アウグスト・ホルヒは、その後このような言葉を残したと言われています。
「私はただ高性能で質の良い自動車を作る努力をし続けたのだ」
そんな彼の価値観が、まさに現在のアウディの価値観にも通じているのではないでしょうか。
アウディの設立
創業者アウグスト・ホルヒがいなくなった「ホルヒ」は、その後事業を安定させ、急成長を遂げます。
一方、アウグスト・ホルヒは、「ホルヒ」の工場が見える向かいの土地に新たな会社を立ち上げました。
それが、「アウディ」です。
今から100年以上前の、1910年のことでした。
ちなみに、「アウディ」とは、「ホルヒ」と同じ『聞く』という意味を持つラテン語だそうです。
Audiのエンブレムに隠された秘密とは?
時は、1932年、第1次世界大戦終戦から約10年後のことです。
それは、アウグスト・ホルヒが「Audi」を創設してから20年が経った頃でした。
この年、1度「Audi」という会社が無くなることになります。
第1次世界大戦に敗戦したドイツは40兆円という多額の賠償金を課せられることになりました。
そして、そんな経済的に打撃を受けたドイツにさらなる追い討ちをかける出来事がおきます。
それが、1929年に起きた世界大恐慌です。
第1次世界大戦後、弱体化していたドイツは、経済危機に陥ります。
この時、ドイツ全国での平均失業率は30%を超えたとされています。
そんな経済状況の中、ドイツ国内の自動車会社も、一社単独での生き残りが厳しい状況になりました。
そこで、アウグスト・ホルヒが最初に立ち上げた「ホルヒ」、2番目に立ち上げた「Audi」、オートバイメーカーとして成功していた「DKW」、小型車を得意とする「ヴァンダラー」の4社が合併する形で、「アウト・ウニオン」という自動車メーカーが生まれたのです。
「アウト・ウニオン」という名前は、ドイツ語で「自動車連合」という意味です。
この時、「アウト・ウニオン」のエンブレムとして使用されたのが、現在の「Audi」でも使われている「フォー・シルバーリングス」です。
シルバーリングそれぞれが、この時合併した4社のことを指しています。
再び戦火に包まれるドイツ
第一次世界大戦以降、「アウト・ウニオン」の1ブランドとして再スタートをきったAudiですが、たった16年でその歴史に幕を下ろすことになります。
その理由は、またしても戦争でした。
1939年、第二次世界大戦が起き、再びドイツ国内は戦火に包まれることになるのです。
6年間に及ぶ戦争の結果、ドイツは連合国占領軍によって占領され、「アウト・ウニオン」の商業登録も抹消されるのです。
諦めない気持ちが「アウト・ウニオン」を復活させた
第二次世界大戦終戦の年、連合国占領軍によって、アウト・ウニオンの商標登録が抹消されました。
しかし、自動車事業に賭けた男たちは、屈しませんでした。
アウト・ウニオン元会長のリヒャート・ブルーン博士と、DKWで販売を担当していたカール・ハーン博士らは、1949年に再び「アウト・ウニオン有限会社」を立ち上げ、自動車製造にのり出すのです。
最初の車は現代的な商用バンだった
新生アウト・ウニオンが操業を開始し、最初に手掛けたのが、「F89L」と呼ばれる商用バンでした。
「F89L」は、当時では珍しい今で言うワンボックスタイプの車で、戦後のドイツの物流に大きく貢献することになります。
翌1950年には、乗用車「F89P」の生産が開始されました。
「F89P」は生産が開始してから1年で1500台以上が売れ、ヒット商品となります。
後には、「F89P」をベースとした、2ドアクーペ、コンバーチブル、ステーションワゴンなど、多くの派生車が生まれました。
ダイムラー・ベンツに買収されたアウト・ウニオン
「F89L」や「F89P」のヒットにより、少しずつその存在感を取り戻してきたアウト・ウニオンでしたが、1958年の4月にダイムラー・ベンツにその経営権を買収されることとなります。
ちなみに、当時のドイツでの自動車メーカーシェアの順位は、①フォルクスワーゲン、②オペル、③ダイムラー・ベンツ、④フォード、⑤アウト・ウニオン、でした。
当時ドイツの国内シェア3位だったダイムラー・ベンツは、それまであまり取り組んでこなかった小型車に力を入れ、フルラインナップメーカーへと発展させるために、アウト・ウニオンを買収したのです。
ダイムラー・ベンツ傘下に入った新生アウト・ウニオンからは、DKWジュニアと呼ばれる小型車が生産され、これが戦後最大のベストセラーとなりました。
一転してフォルクスワーゲンの傘下に
ダイムラー・ベンツの傘下で一見好調に見えたアウト・ウニオンでしたが、ダイムラー・ベンツの経営方針の転換により、フォルクスワーゲンにその経営権を売却されることとなります。
こうして、1962年、フォルクスワーゲングループの1ブランドとしての歴史をスタートさせたのです。
現在のAudiの誕生
その後、1969年にアウト・ウニオンは、ロータリーエンジンを世界で最初に完成させたメーカーである「NSU」と合併することになります。
この時、社名を「Audi・NSU・アウト・ウニオン」と変更しています。
アウト・ウニオンを形成してきた4つの自動車メーカーの中から、「Audi」のみが社名に残されたのは、「Audi」というブランドが存在感を高めつつあったためです。
その後、1985年、「Audi・NSU・アウト・ウニオン」は正式に「Audi」株式会社となります。
その後はみなさんもご存知のように、「Audi100」や「Audi80」など、革新的な技術を織り込んだ商品を次々にヒットさせ、その存在感を確固たるものにしていきました。
いかがでしたでしょうか?
Audiのような有名自動車メーカーにも意外と知られていない歴史があるのです。
こうやって、その歴史を知ると、馴染みのあるメーカーやそのメーカーの車も、また違って見えてくるのではないでしょうか。
参考:アウディの矜持